この宇宙の開始は「善悪」で表現できるか
ひとり仏のみはそれをあるがままに知っている。
だから、仏はこの世の中のことが
まことであるとも言わず、
偽りであるとも言わず、
善いとも言わず、
悪いとも言わず、
ただありのままに示す。
すべてのものは、みな無常であって、
うつり変わるものであること、
どのようなものにも我がないということは、
仏[ほとけ]がこの世に出現するとしないとにかかわらず、
いつも定まっているまことの道理である。
(仏教聖典より)
人間の誕生は諸説あっても数万年とか数百万年前、
そして生命と呼ばれる何かが存在する前にも
この宇宙はあって、
そこには今で言う素粒子物理の高エネルギー現象のみがあった。
この世界で人間が知覚できる現象は可逆的空間と不可逆的時間があるだけで、
それに「善悪」の表現をつけたのは人間である。
「仏」は「良心を発動する遺伝子の存在」と「物理」を合わせたようなもの
仏は人ではなく、仏は聞こえる言葉でもない、と
説明されています。
仏のまことの相は、
世の人には見ることもできない。
どんなにすぐれた描写によっても
仏を知ることはできないし、
どんな言葉によっても
仏の相は言い尽くすことはできない。(仏教聖典)
敢えて「仏のメッセージ」というものを考えたときに、
対応する科学の言葉は「良心を発動する遺伝子」と
解釈するのが相応だと考えます。
「良心を発動する遺伝子」は人の感情の有無によらず、
人種によらず宗教によらず存在し、
遺伝子は「物質」として意味があるのではなく、
その配列、つまり情報、「メッセージ」に意味があり、
そして遺伝子はすべての生き物が等しく持っているものです。
それゆえ、この表現は意味を持ちます。
人が思うから有るのではなく、
人が忘れるから無いのでもなく、
人の喜ぶときに来るのでもなく、
人の怠るときに去るのでもない。
仏そのものは、人の心のさまざまな動きを超えて存在する。
仏の身は、あらゆる世界に満ち、
すべてのところゆきわたり、
人びとがふつう持っている仏に関する考えにかかわらず
永遠に住する。(仏教聖典より)
そして、釈尊は何が言いたかったのか
ふとした折に仏教聖典を手に取ったところから
禅問答のような言葉を何で解釈すべきかと
いろいろ考えていました。
「真理のみを説いた」という言葉に
もし確からしさを感じられるなら、
それに相当する現代の科学の表現と矛盾しないはず、と
考えました。
そしてそれらを超えて
「釈尊が目指したもの」であり「人が目指すもの」が
何であるのかを科学の表現で追跡できるのか、ということを
書いてみたくなりました。
科学と証明で追跡できる範囲で
このメッセージに迫ります。
「ものの実体は見ることも知ることもできない」
ないわけではなくあるわけではない、という言葉
=量子論「粒子・波動の2重性」
物質の本質は「存在確率の波」の中にあって、
粒子として観測した瞬間に波動性が失われるため
たった一つの粒子の本質をつかむことは
不確定性原理により原理的に不可能である
=ハドロン・クォークの存在
素粒子理論の上で存在があるとされたクォークは
実験的にクォーク単体が取り出せず、
常に対になった形でしか観測できない。
=平衡状態
湿度100%の雰囲気中に置かれた水は量が変化しないが、
気体である水蒸気と液体である水は
その境界面で常時入れ替わっている。
つまり水滴として存在しているのではあるが
常に水滴の外の存在と入れ替わり変化している。